困惑するアリスロッテ
- 1 木洩れ日坂
1 木洩れ日坂
「お母さん、これ」 台所の隅にひからびた肉片があった。 「ああ、大丈夫。まだ食えるよ」 罪悪感というのは、空気の中に紛れ込んでいた。息をするだけで胸の底に溜まっていく。 「どこにあった?」 お父さんがいないことが、いつの間にか私の罪悪感になっていた。 「こっちの戸棚の奥」 正確に言えば、お父さんがいないことが、じゃなくて、お父さんがいないいまの暮らし。いつかお母さんが再婚なんかしたら、たぶん私は殺してしまう。新しいお父さんなんて。 「吊るしてなかったんだ」 「うん。ネズミがかじったかもしれない」 絞ってきたヤギのミルクを食卓に並べた。お母さんはお裾分けにともらったスープを温めている。タフタおばさんは昨日も遅くまで話し込んでいた。お裾分けは口実。私の耳に届かないように、ときおり声を潜めた。 世の中で父親ほど無用なものはない。母と子の血で繋がった関係に寄生するだけ。働いて、金を稼いで、その金で幸せを買う。 「今日も庄屋のお手伝い?」 「そうだよ」 一昨日のパンをちぎってスープに浸した。 「庄屋の息子、嫌い」 この暮らしの中に、父親がいなきゃいけない理由なんてない。 「そうか? 男子なんかぜんぶああだぞ」 父親、ひいては男子全般。家庭に寄生するだけの蛭。そこにどんな意味があるんだろう。そう考えていたある日、私の体にも変化が起きた。そのとき、お母さんが教えてくれた。 私たちはヤギと一緒だって。 スープを飲み干すと、ざらざらとした胡椒の粒が口に残った。❡
その日の夜空は妙に明るかった。
月の色――なのかもしれない。
夜の天蓋は薄っすらと赤く染まって、二頭のヤギはか細い声で鳴いた。
空を満たした静電気。空気はピリピリと目の周りにまとわりついたけど、夜は静かに私の口を塞ぐ。浅い眠り。ずっと同じ夢を繰り返して、記憶を残さずに消える。
朝、目を覚ますと、スープの匂いがなかった。
「お母さん」
冷たい床。昨日抜いだまま硬くなった靴を足に沿わせる。
玄関。扉を開けて、ヤギ小屋、薪置き、少し離れた井戸と人差し指でつないでもお母さんはいない。扉を三歩離れると、森の音がざわざわと頭上を覆った。
風の中にぶーんという低い唸り音がある。
なんだろう、この音。
空という空から、その音は聞こえる。
「アリスロッテ」
お母さんの呼ぶ声が聞こえた。里の方。姿が見えた。
「お母さん。何があったの?」
「ハミングリフトだ。この村にも現れた」
ハミングリフト――。
聞いたことある。オッカネ山にあるやつ。空間に空いた裂け目のこと。
「お母さん、見てきたの?」
「ああ、庄屋が案内してくれた。❡
足元の影も小さくなるころ、村のひとたちは三々五々その場を離れた。
「せっかく里に降りてきたんだ、庄屋様に挨拶していくか」
「ええーっ」
庄屋はいつもお母さんを狩りのオトモに指名してくれる。我が家の家計は庄屋に支えられてると言っても過言ではなかった。でも態度が嫌い。
「そう言うな。この集落があるのも、あれのおかげだ」
「そうかなー」
「そのあとでおいしいものでも食べに行こう」
「うん!」
こういうのもなんだけど、私って切り替えの早いいい子だと思う。
庄屋の家は古くて大きくて、庄屋もその息子もなんか。虫が好かない。
ていうか、むしろ息子に至っては虫にしか見えないっていうか。
いや、虫と比べたら虫が可愛そう。母親はどんな気持ちでこれを生んだのか。私が生まれる前に死んじゃったらしいけど、この息子のせいだと思う。庄屋の屋敷に染み込んだ木酢液のような匂いも、この息子から出てるんだと思う。わけのわからないことを叫びながらバタバタ走り回ってて、なんかイライラする。
庄屋はなんか、眉毛がハの字だし。笑ったときも眉間にシワが入ってる。
「やあ、アリスロッテ。ハミングリフトを見に来たのか?」
なんなんだその表情。
「こんにちは。はいそうです」
さようなら。
私とちゃんと話したいなら、その無駄な眉間のシワを伸ばせ。
「触れてみたかね?」
その眉間にか? ちがうな。ハミングリフトだ。
「触れたけど……」
「あれに触れると、なんかこう、手がぶるんぶるんするよなあ」
ああもう、その言い方がいや!
なんなのその表情! それは笑顔なの!? 困ってるの!? なんなの!?
庄屋に染み付いた饐えた匂いを払って、私とお母さんと、街道辻のパブでお茶を飲んだ。お茶受けはお店ご自慢のオレンジのケーキ。しっとりとしたお砂糖のアイシングが輝いてる。
「甘いものを食べると魔力が増す気がする」
私は小さく小さくフォークで削って食べてるのに、お母さんの食べ方は雑だ。
「わからんでもない。試してみるか?」
半分くらい一気に行く。
「いいのっ!?」
「ああ、でも、山小屋に帰ってから」
「わかった! じゃあ、食べ終わったら走って帰る!」
「元気だな、アリスロッテは」
「えっ? お母さんもだよ?」
「私も?」
ケーキを食べ終えて店を出るとすぐに走った。
私のほうが絶対に速い。普段からそう思っていたのに、お母さんは軽々と私を追い越していった。木洩れ日の降る坂道。息が切れる。羽虫の群れを避け損なって髪に絡まる。山小屋へつく頃には、汗が流れた。
「お母さん……、なんで……、本気……」
息が上がる。
「アリスロッテが走ったから」
「速すぎるよ、いくらなんでも」
「こう見えても狩人だ。荷物がないぶん走りやすかった。そんなことより……」
そんなことより……そう、
「魔法……」
「そうそれ」
「もうへとへとなんだけど……」
ためしに薪置き場の脇の切り株に――
「ふれーむらんすー」
炎の槍を放ってみたけど、威力は普段の半分以下だった。
脱力感。どっと押し寄せるこの脱力感。
「集中して。アリスロッテ。成長したとこを見せて」
「集中してったって……」
「さっき食べたオレンジケーキの味を思い出して」
「さっきの……」
って、思い出してなんとかなるものなの?
お母さん、拳を握りしめてる。
やれってか。
……甘酸っぱい生地に砂糖のアイシング……端っこから削って……
「こころのなかで反芻するんだ!」
いま集中してるんだから、待って。
「ヤギのように!」
わけわかんないもう。
「ヤギのように! こころのなかで! ケーキを反芻するっ!」
それって、胃の中から戻してもういちど咀嚼しろって意味じゃないのっ!?
「いまだっ!」
なにがいまなのよもう!
「フレームランス!」
突き出した右手のひらから炎が走った。その反動が肘に伝わる。
「このちから……」
「反芻パワーだ」
「変な名前付けないで」
目の前には少しだけ欠けて炎を燻ぶらせた切り株があった。
でも……こんなもんか。
「すごいじゃないか、アリスロッテ!」
ため息が漏れた。
「うん」
でも、こんなんじゃ元気なときにやったって、たかが知れてる。
「なんだ、この程度じゃ不満か?」
「粉々になると思った」
「魔法石なしでそれだけできれば立派だ。石さえあれば、いずれは大魔法使いになる」
「それっていつのことなんだろう」
魔法石は貴重品だし数も限られてる。
「いずれは私のを譲るよ」
その話だってもう何度も聞いた。
「私も親父から譲られたんだ。代々伝わってきた石だ。ゆくゆくはおまえが持つことになる」
そう言いながらお母さんは魔法銃に込められた石を取り出して見せてくれた。
「使ってみるか?」
手のひらに乗せられた石は熱を放っているようだった。意識を集中すると、鼓動に合わせて光を放つ。
「いいの?」
「おまえなら、この小屋くらい吹き飛ばせる」
いや、それはないでしょ……私が、そんな……
「でもまあ、試すとしたら、もっと山頂のほうでだな」
「ええーっ?」
「しょうがないだろ。騒ぎになってもまずいし」
「今日はもう無理ーっ。足がもうぱんぱんー」
❡
けっきょくその日、『お国のお偉いおひと』は来なかった。
「でもさー」
「うん」
「お国のったってさー」
お母さんはほつれた服を繕いながら、そっけない相槌だけ。
「とっくに滅びてるじゃない。私たちの国」
「そうねー、そうだけどねー」
ランタンの灯が静かに揺れる。
「そうだけど、なに?」
「心のなかにはまだあるんだよ。ラゴール王国が」
なにそれ。バカみたい。
「私にはない」
「あんたは6歳だったから。国が滅びたとき」
壁に映るオレンジの円のなか、お母さんの影が笑う。
「歳は関係ないもん」
私たちが住むこの国、ラゴール王国はもう滅びていた。
8年前に王宮で起きた爆発で、王族の全員と騎士団の大半が失われてしまった。
その後、国はさまざまな小国に分裂。その小さな国や自治領を統治するのがオースリー……ええっと、オープン? オーダー? オブザーバーだかオペレーションだか。忘れたけど『お』がみっつのひとたち。
彼らは旧ラゴール王国の復興を目指しているらしい。お母さんは――お母さんだけでなく、村のひとたちはみんな、彼らのことを『お国のお偉いおひと』と呼んだ。
「明日あたりは来るんじゃないか? おっおっおっ」
「おっおっおっ?」
「お国の、お偉い、おひと」
とまあ、この程度の扱い。
お母さんは、縫い終えた服から順に大きな袋に詰めた。
「ていうか、何やってるの?」
「この機会だから、服を修理しておこうと思って」
「ふーん」
あ、まって。この機会?
「この機会ってなに?」
「しばらく妹に世話になるかもしれないだろう?」
「タフタおばさん? なんで?」
「ここ、ぎりぎりハミングリフトから1レウカなんだ」
「ええーっ!?」
窓から忍び込む淡いコスモスの夜風には電気のラメが散りばめられていた。胸に吸い込むとときめきに変わる。耳をすますとハミングリフトの音が聞こえる。聞いたことのない夜の音。音と味覚。味覚、また音。
「タフタおばさんちのほうが、ハミングリフトに近いと思うんだけどなー」
「道なりに行けばそうだけど、うちは山道だろう? つづら折りになってるぶん、直線距離だとこっちのほうが近い」
「直線距離って。そんなのどうやって測るの?」
「お偉いおひとだからねー、測量技術がちゃんとあるんだよ。王国から受け継いだ」
「そうか……」
「そう。鳩を飛ばして、着くまでの時間測るとか」
「はあ?」
❡
気がつけば朝。
「それじゃあ、行ってくる」
ふとんのなかで聞くお母さんの声。
うん……いってらっしゃい……
「――って、待って!」
いってらっしゃいじゃないよ!
急いでベッドから這い出して玄関を開けてみるけど、お母さんの姿はもう見えなかった。
「お母さん! どこ行ったの!」
大声で訊ねると、遠くから声が返ってきた。
「いつものー」
いつもの?
「しょ……の……いー」
もう聞き取れない。
ベッドを出たら、昨日寝る前に途切れてた線と、朝起きて手に握ってた線とがようやくつながった。そう言えば、日曜日。ということは、庄屋の家で集会だ。
ハミングリフトをどうするか、村のお偉いおひとみんなで話すんだ、きっと。
――ぶるんぶるんしますなぁ
――気持ち良いもんですなぁ
って。
玄関先、タテフダノ木を見てみると、新しい伝言があった。
――出かけるまえに、水くみ忘れずに
めんどくさ。
でもちゃんと返事書いておかないと怒られるから。
――アリスロッテ、りょうかい
あいてる隙間に金釘で刻んだ。
井戸まで三往復。水瓶に水を張ったあと、タテフダノ木に残る懐かしい伝言を読んだ。
――薪を割っておいて
――アリスロッテ、りょうかい
――タフタを街まで迎えに行く
――アリスロッテ、りょうかい
ずっと小さい頃の伝言。金釘文字を刻んだ葉が、茶色く変色しても落ちることなく幹にぶら下がってる。タテフダノ木は伝言板にもなったし、日記にもなった。ぱらぱらと古いページ。
――ちゃんと髪をとかして
はいはい。
水くみを終えて髪をとかしながら木洩れ日坂を降りると、ハミングリフトの人集りは消えていた。
きっと今朝の集会で、ハミングリフトに近づいてはならんって指示が出たんだ。
でも私はそんなこと聞いてない。髪もいつも通り。ブラシを食い込ませて振り回しながら歩くと、ひとりだけポツンと少年の姿が見えた。
私と同じだ。集会に出てないからなにも聞いてないんだ。立ち止まるのも変だし、ハミングリフトへ。
向こうも私のことを見留めるけど、見たことのない顔。
もしかしてこのひとが、お国のお偉いおひと? まさか。私と同い年にしか見えないんだけど。それに衣装も、このあたりでは見かけない。そして……彼の手元に赤い光が脈動している……まるでハミングリフトに共鳴するように……
思わず足が止まった。
もしかして、魔法石……?
「あのう」
向こうから声をかけてきた。
「この近くの方ですか?」
そう。あの、ええっと……
「うん」
「小鬼の森の開拓村から来ました。ご存知ですか?」
「小鬼の森?」
それが私、アリスロッテ・ビサーチェと、遠くの村から来た謎の少年、コート・リムラインの初めての出会い。私の髪にはブラシがぶらさがっていた。
ほえほえ!
⚪
🐹
🐰
🐻
⬜