ボツ作品を練習台にする

 文筆業などを生業としていると、それではさぞ小説などもお得意なのでしょうと思われるかもしれませんが、僕の場合そうではありません。むしろ苦手です。はずかしながら齢50を過ぎるまで、小説というものを書いたことがありませんでした。
 しかし、伝えたい物語があるのに伝えられないというのももどかしいもので、ああ、こんなときに小説でも書けたらと思って練習がてらに1本書いてみたものが、今回紹介する作品です。ですがこれがまあ、拙いこと。このまま青春の、いや、白秋あるいは玄冬の苦い思い出にしてしまおうかとも思ったのですが、ここで恥を晒して討ち死ぬことこそ老兵の勤め、せめて他山の石とならんと、初期案から改稿案4本を大公開してしまうことにいたしました。まあ、なんだかんだ言いながら、己の文章を晒すのは好きなのです。
 作品は、昔から書きたかった木星の浮遊大陸モノ。
 タイトルは『マリナー』。
 そのさわり、主人公がネイティブアメリカンのマスターの指導でビジョンクエストというイニシエーションを受けに行くところを、あれこれいじりたおしています。

 まずは初期稿から公開したいと思いますが、じつは本当の初期稿はあまりにも拙く、さすがにちょっと改稿を入れてます。しかしながらそのような瑣末が気になるのも書いた本人のみ、人様の目から見たら大差ないというのもありがちな話ですよね。
 では、タイトル部分をぽちっとクリックすると文章が表示されますので、ぽちっとして御覧ください。

CLICK! 黒歴史を刻んだ初期稿(1300文字)
第一章 デニスの弟子
 飛行機の中で一瞬だけ十四歳になった。
 日付変更線を越えて、今日は十三歳のオマケの一日。
 ロサンゼルス国際空港のムービング・ウォークで、伯父の後ろに立って英語の案内を聞いていた。
 ――手すりにつかまってください、左側をあけてください、それからたぶん、降りる時は足元に注意してください――
 実際聞いてみると中身は日本と変わらない。流れていく窓の向こうに、白い翼を追う。
「ガイドを頼んである。車も出してくれるそうだ」と、振り向きざまに伯父。
 スマホを尻のポケットにしまって、後ろから歩いてくる人の姿に気がついてキャリーバッグを寄せる。
 ターミナルビルを出ると定規を当てた夏の陽射し。熱気に揺れる風の底に、白いピックアップトラックが姿を現す。荒い息遣いでその肺活量を誇示して、ゆっくりとカーブを曲がり、僕たちを視界に捉え、目の前に身を寄せる。
 伯父は降りてきた女性と握手を交わす。クレア・カザンと名乗ったその人は、僕のビジョンクエストのガイドをしてくれるマスターのお弟子さん。ビジョンクエストに関しては僕もまだ詳しい説明は受けていない。取ったばかりの英検2級の英語で挨拶、自己紹介。ビジョンクエストのことを切り出すと、だけどそのまえに、せっかく来たんだからと、三人でロスの街へ食事に出る。
 ファミリーネームの『ムカイ』で呼ぶと伯父と混同するから、下の名の『ヒロキ』で呼んでもいいかと、遠慮気味な表情、なのに早口で尋ねてくる。オフコース……『かまいません』って、英語でなんて言えば良いのだろう。戸惑っているとクレアさんと叔父とでいくつか言葉を交わして、「ヒロとロキ、どっちがいい?」と、叔父が訊いてくる。
 買ってもらったばかりのサングラスをかけて、半ば映画じゃないかなみたいな街並は、消火栓を見ただけで、パトカーを見ただけで、歩道の段差にけつまづいただけで楽しい。空の色、雲の形、そこに溢れてる音も、空気の匂いも、その肌触りまでも何もかも違う。
 伯父は僕の時差ボケのことを気にしていたけど、そんなものはもう、ぜんぜん。
 眠気? なにそれ。街を歩いてるだけでハイになってくる。
「それが睡眠不足の証だって言ってるんだ」
 というその顔は無精髭を生やし、長髪で髪は染めてて、有名なハリウッド俳優に似てなくもなく、僕の母からは『ニセピ』と呼ばれていた。
 ガイドさんの方はと言えば、とある日本のアニメの、中でも自分と同じ黒髪で長髪のキャラが好きだと話してくれて、それにうっかり乗ってしまったおかげで、「その歳で知ってるなんて凄いです」と、こちらも相当なアニメ好きだと思われてしまった。
「母が好きなもので」
 そのあとしばらくは、そのアニメの話。夕食を終えて、「それじゃあ明日、現地で」と、ダウンタウンのホテルまで送ってもらった。
 ロスのホテルって、もっと縦に長いバカでっかいビルを想像してたけど、平屋かって言うくらいの横長なホテル。買ってきたコーラとビール1ダースずつを冷蔵庫に突っ込んで、オマケの一日を乾杯で締めた。

 ちょっと手を入れて読めるようにしてありますが、最初はもっと惨憺たるものでした。それで、表現の拙さが気になって、このあと2年に渡って何度も手を入れてるのですが、結果から言うとこの初期稿がいちばんキラキラ感があります。特にロサンゼルスの街へ出たあたりの、なにか描写しているようでなにも描写していない部分、具体性もなくただ『普段と違う』とか『それらしい◯◯』とか書いてしまう部分、不満がある一方で不思議なこのキラキラ感は捨てがたいと感じるのです。
 あとは、主人公が薄い。動機づけも家庭環境もよくつかめないと思って、飛行機の中の様子から描いたのが第二稿です。ここまでにもうほかに長編3本ほど書いたあとなので、少し技巧的な感じになっていると思います。鼻につく文章にならないように気をつけてはいるんですが、さてどうでしょう。
 ちなみにこの初期稿の、飛行機のなかで歳をとって、その後で日付変更線をまたぐロサンゼルス行きの飛行機というのが実在するかどうか調べたのですが、一応はあるようでした。
CLICK! 主人公の心境に迫った第二稿(1300文字)
第一章 デニスの弟子
 行き先、ロサンゼルス。
 国際線は初めてだった。
 空港を飛びたつ感覚は国内線も国際線もそう変わらない。雲を切る翼を見ながら窓際に肘をかけてみるけど、じつは国内線も数えるほどしか乗ったことはない。
 初めての海外に期待はある。でもそれを胸に上らせたくなくて、耳の気圧を抜くように飲み込み続けた。空港に迎えに来るはずの叔父と、どんな言葉を交わすのかわからないし、この先どんな失望があるかもわからない。期待なんか、うっかり膨らませるものじゃない。
 ただそれでも、開放感はあった。抜けるような――とまではいかない、必要十分条件を満たした開放感。薄青い空にはまだいくつかの気がかりが金属音をあげて、広げた両翼に追いすがる。だけどそれも、寝て起きればなくなる。だって、ロサンゼルスだぞ。地球の反対側だ。直線距離で測ったら、地球貫くんだぞ。地面の向こう側の街に行くのに、空飛ぶんだぞ。畜生。冷静にしてるつもりでもこうやって、興奮が喉に上がってくる。
 食事をとって、やることもなくて、母からのラインに返事を返したあとは、スマホで曲を聞きながら眠りについた。英語の成績は悪くないのに、洋楽の歌詞ってのはどうしてこうも聞き取れないんだ。
 ポーンというアナウンスごとに、見えない何かを超えていく。その先の景色は見えず、ただ昨日までの現実の景色が一枚ずつめくられていくだけ。目を覚ますとラインが3件。ぜんぶ母から。足を揉みほぐせ、と、顔文字、スタンプ付きで。
 薄暗い機内でスマホの画面を滑らせる。予想していた海外旅行とは少し違った。隣り合わせた外国人と旅の目的を話したり、あるいは「ビーフ・オア・チキン?」と尋ねてくるキャビンアテンダントと、英語で簡単な会話でも交わしたりする気でいたのに。「チキンしか残っていません」の言葉をヒアリングするのがせいいっぱいだった。空を飛んではいるけど、日常の延長。読みもせずただ流れるだけのツイート。ホテルでは折り鶴を枕元に置いておくといい――なんて書き込みに《いいね!》だけ付ける。
「ロスへは観光でお越しになられたんですか?」
 隣で寝ている何人かわからないおじさんが、熟睡したまま僕に話しかけてくる。
「ええ、ちょっとビジョンクエストを受けに」
「ビジョンクエスト? それはいったい……」
「それが、僕にもよくわからないんです。でもたぶん、こういうことだと思いますよ。目を瞑って、心の中だけで語り合うんです。誰かと」
「誰かと?」
「そう、誰かと」
 母から4件目のライン。4度目の足を揉みほぐせ指令と、謎のスタンプ。
 バゲージ・クレームで向井裕貴(ルビ・むかいひろき)のネームタグを探していると、続けてもう1件ラインが入る。
「ニセピによろしく」
 叔父の写真が送られてくるけど、あてにしてよい写真なのかどうか。戸惑いはしたが、トランクを受け取って外へ出るとすぐにその、ニセピがいた。母からのラインを見せると、ニセピらしい笑みを浮かべる。母に薦められたイングロリアス・バスターズで見た顔。あるいは悪の法則。

 ここから初期稿の冒頭につながっていく感じですが、キラキラ感が減って、ややスタート時の加速が遅くなった気がします。あとは、主人公の内面描写に寄り過ぎてるなと思って、次の稿は少し外の様子を描写することにしました。主人公が目にしたものを通して主人公の内面を描くというのに挑戦しようとしたのが第三稿です。これでレベル的にはふたつあがるはず、スライムばかりでなく、ドラキーも倒せますね。
CLICK! 叙事性を高めた第三稿(2500文字)
第一章 デニスの弟子
 国際線は初めてだった。
 日本人客も少なくはない。書類ケースを持つ者、新婚旅行らしい夫婦、何組かの熟年カップル、それぞれの旅の行く先を思い描いてみるが、僕の脳裏にあるロサンゼルスはハリウッド看板のあたりだけ。みなが一様にそこに整列した姿が浮かんで、笑いがこぼれた。
 少し前の席には、家族連れらしい三人の姿が見え、父親が立ち上がり、家族の荷物を棚に上げる。通路際に座る息子はおそらく中学生。ひとことふたこと交わす言葉が、機内の天井を伝う。父親って、こんなタイミングで笑うんだ。仲睦まじい家族をドラマ以外で初めて見た。テレビで見る家族なんて、半ば冗談で描かれているのだと思って観ていたのに、明日から見慣れたドラマの意味が変わってしまう。うちでドラマを見ることは、そう多くはないのだけれど。去年までの父なら、受験も控えたこの時期に海外旅行だなんて許すことはなかった。なのにいまこうしているのは、僕の精神状態が父から見てもよほどだったのか、医者から何か言われたのか。叔父が唐突に『ビジョンクエスト』を受けさせたいと言い出した理由も、それと遠くはないのだと思う。
 不安はないですか――
 ふと、テレビで見たインタビュアーの声が思い出された。
 あれは確か、清水雅人って芸人がニューヨークに拠点を移すときのワイドショー。
「いままで安穏とした中で失ったものを、取り戻しに行くんです。むしろ不安が糧になります」
 いろいろと調べ尽くして、それでも不安を拭い去れずに絞り出した言葉なのだと思う。それに比べると僕は気楽だ。空港に着いたら叔父が迎えに来ているし、寝る場所もある。今までに得たものも、失ったものもないし、取り戻すものもない。不安があるとしたら、叔父との会話のバリエーション。その不安を取り去った向こうにはもう何もない。
 窓の外の景色が、ゆっくりと流れ始めると、インタビュアーが僕にマイクを向ける。
 向井裕貴(ルビ・むかいひろき)には、不安はないですか――
 車輪が滑走路のかすかな凹凸を拾う。ゆっくりと周波数を上げていくエンジン音を耳にしながら、僕は口元に差し出されたマイクを払う。
 ひとはおそらく、想像できないことを不安として感じるのだと思う。不測の事態なんか思い描がかなければ不安はない。ビジョンクエスト――僕の旅の目的は、そう呼ばれるネイティブアメリカンのイニシエーションを受けに行くことなのだけど――それが始まったら、あとは荒野で三日三晩飲まず食わずで過ごすだけ。母はビジョンクエストで亡霊を見たと言うし、叔父は自分自身と出会ったと言うけど、三日三晩飲まず食わずでいたら、そのくらいの幻覚は見るでしょう。それを今から恐れてもしょうがない。不安があるとしたら、時々視界に入る目の前の親子連れ。幸せなんか、長続きするはずがない。この飛行機はおそらく、ロスに着く直前で海に落ちる。
 食事をとって、やることもなく、寝付けずにゲームを始めると、退屈がすぐに僕を捕まえる。つい先週、夜遅くまで手放せなかったゲームが、今は手に付かない。いつの間にか落ちた眠りのなかで、日付変更線を超えた。
 目を覚ますとラインが3件。ぜんぶ母から。足を揉みほぐせ、と、顔文字、スタンプ付きで。ノイズキャンセリングのヘッドホンを外すと、薄暗い室内は人工的な風の音に包まれている。海外旅行の中の最も特別な経験は、音速に近い速度で飛ぶこの時間。僕たちはこの非日常の空間でまぶたを閉じて、ポーンというアナウンスごとに、見えない何かを超えていく。その先の景色は見えず、ただ昨日までの現実の景色が一枚ずつめくられていく。
 母から4件目のライン。4度目の足揉みの指令と、謎のスタンプ。続けてもう1件。
「ニセピによろしく」
 徹夜明けの気だるさが、鼻筋を覆うなか、飛行機の高度は下がっていく。今日の天気、気温、湿度がアナウンスされて、車輪はふたたび滑走路を捉える。予想した墜落もなく、それでもそこには小さな緊張と、開放とがある。シートベルト着用のサインが消えると、家族連れの頭がまたシートの上にちらちらと見え始める。
 はれぼったくもすがすがしい乗客の列が通路に並ぶと、シートの背に貼り付いていた汗の匂いが立ち上がり、僕もそこに体温調整に失敗したからだを滑り込ませる。家族連れがいた席、機内食のワゴンを横目に過ぎて、キャビンアテンダントの笑顔には安堵と疲労感が浮き出る。だれかが噛んでるガムの匂いをくぐって、扉の先のロサンゼルスへ。鉄のドアを超えると空気が変わる。その先の通路を抜けると、そこでまた光圧が上がり、空気は対流を始める。時間が動き出した。人の流れに沿って歩き、バゲージ・クレームを出るとすぐにニセピがいた。母からのラインを見せると、ニセピらしい笑みを浮かべる。母に薦められたイングロリアス・バスターズで見た顔。あるいは悪の法則。その仕草から、母のニックネームセンスの的確さを知る。
 電話をかける伯父の後ろ、ムービング・ウォークで歩く人に追い越されながら、手すりにつかまってください、左側をあけてください、それからたぶん、降りる時は足元に注意してください――英語の案内を聞き取ってみるが、中身は日本と変わらなかった。これならヒアリングできるんじゃないかと、すれちがう人の言葉に耳を傾けてみるが、ひとによってイントネーションが大きく異る。まだ空港の中ということもあって、英語以外の言葉もよく聞かれる。
「ガイドを頼んである。車も出してくれるそうだ」
 伯父は尻のポケットにスマホを入れ、歩く人の姿に気づいてキャリーバッグを寄せる。
 売店の作りが、日本よりもひとまわり大きく見えて、あたかも日本車とアメ車の違いのよう。英字の新聞や雑誌に、見慣れぬスナック、見慣れたパペット。手書きの下手な文字で書かれた日本語の看板。
「お食事、通路を抜けにあります」
 ターミナルビルを出ると、一気に空が広がる。旅客機の音に塗り込められた深い青空。定規を当てた直線の日差し。乾いた熱風が駆ける。その風上にはネバダの砂漠がある。

 ちょっと気障な感じになりましたが、キラキラ感がずいぶん減りました。僕が求めていたキラキラとはなんだったのか。自分では悪くは無いと思うのですが、一般的にひとが読みたくなる文章からは少し離れた気がします。
 ここまでは少しカッコつけすぎたかなという反省もあり、次は初心に戻ってちょっとオーソドックスなものを書いてみることにします。
 やっぱり最初の方でビジョンクエストの説明を入れたほうが良いし、キャッチーな出だしで、主人公の日常を見せてからスタートしたほうが感情移入も高まるんじゃないかと思って……
CLICK! そうそうに諦めた第四稿(500文字)
 その日、お父さんは屋根の上にアンテナの修理に、お母さんは居間でリモコンとスマホを持って待機していました。
「ヒロキ、お父さんがスパナ持ってきてって」
 さっきは、ヒロキは受験勉強があるからと居間を追い払われたのに。
「スパナってどこにあるの?」
「クローゼットじゃない? 収納ボックスの一番下」
「マジか」
 一番下の収納ボックスなんか、上からの圧力でまともに開くわけもない。上の箱から順に降ろして、スパナを見つけ出す頃には「スパナもういいってー!」と、母の声。僕は少し呆れて、ため息も漏らしたけど、箱の中のガラクタに目が留まる。居間の掃き出しを出て、母が何かを屋根に放り上げている。笑い声と、屋根の上を歩く父の足音。不意の叫び声。母が若いときに編んだ『プレイヤーズ・タイ』を見つけたのは、その時だった。
 屋根から足を滑らせた父は、庭の柿の木につかまって事なきを得た。
「ねえ、お母さん、これ、ネイティブアメリカンか何かの模様だよね?」
 僕は居間の収納で見つけた長い編み紐を持って母に訊ねた。紐の劣化具合から、母の独身時代のものだと思われる。手作りで不格好だけど味があった。
「そう、私が編んだの。ビジョンクエストを受ける時のなんていうか、魔除けに」
「魔除け?」

 いや、ここから書いていたら展開が遅い。まあその気になれば、次の瞬間には木星の浮遊大陸までふっとばしたっていいんだけど、2000文字程度はこの調子で書かないと展開が唐突すぎるし、かと言ってこのまま書いていたらファミリーコメディ路線に行ってしまいそう。それにこの冒頭だと、ラストは家庭に帰ってこいないとおかしいし、その予定はない。
 ラストにつなげるという意味では、いっそビジョンクエストから始めるのもありだな、と、第五稿はロス到着前後をばっさり切ってみました。
CLICK! 書いてるうちに止まらなくなった第五稿(6700文字)
第一章 デニスの弟子
 伯父に起こされて、車に乗った。マスタングの青いカブリオレ。夜も遅く、屋根は閉めたまま。少し寝ておけと言われてから2~3時間しか経っていない。助手席で対向車のまばらなライトを見ながら、ドジャースタジアムを超えたあたりで僕は寝てしまった。
 まだ夜明け前の四時、国立公園にほど近いデニスの家についた。薄暗い室内。床板の軋みが人の動きを伝える。手織りのタペストリー、バッファローの頭蓋に、ランタンの灯が揺らめく。今日僕は、この大陸に古くから伝わるイニシエーションを受ける。
「ヒロキ・ムカイ」
 アシスタントのクレア・カザンが僕の目をまっすぐに、見据える。
「昨日説明した通り、まずはスウェット・ロッジから、次にビジョン・クエストに移ります。同意書は頂いていますが、念の為に確認します。初めてよろしいですね?」
 伯父と話すときとは違う、聞き取り易いゆっくりとした言葉で僕に尋ねる。
「はい」
 睡眠不足で少し足元がぼんやりしていたけど、首を縦に振ってはっきりと答えると、クレアはデニスにそれを伝える。白い髭をたたえた痩せた老人が頷く。鳥の羽や獣の骨で飾られた民族衣装に包まれた体が、僕に向き直る。この深い瞳が、これまで何人もの弟子を導いてきた。
「よろしくおねがいします」
 クレアの後ろから、僕は頭を下げた。
 バスタオルを渡され、脱いだ服は祭壇のようなところに捧げて、タオル一枚を纏って外に出ると、あたりはまだ砂漠の夜の冷たい空気が漂う。スウェット・ロッジの儀式は伯父も受けるというので、家の裏のテントまで、露天風呂に向かう親子のようにしてふたり歩いた。伯父は前を隠しもしない。見渡す限り誰もいない荒野で、僕は股間にタオルを当てて歩いた。
「お母さんもこれを受けたの?」
 そう訊ねると、何も言わずに軽く頷く。
 家の裏手を少し行くと、獣の皮で張られたテントがあった。
 説明もなく、すぐに儀式が始まる。もしかしたら、もう始まっていたのかもしれない。
 デニスを先頭にテントの周りを回る。その間デニスは祝詞を唱えている。夜明けの低い太陽が見える。空の反対側はまだ夜。昼と夜をぐるっと回って、そうか、真ん中のこのテントは地球そのものなんだ。
 入り口でハーブを焚いた煙を掛けられ、聖水を掛けられ、僕の中ではこれは雲、これは雨、あるいは火山が吹き上げる噴煙と、岩に砕ける波の雫と、そんなことを思いながらテントの中へ。伯父の見様見真似でと思っていたけど、中は真っ暗で人の姿はシルエットしかわからなかった。
 テントの中には熱い水蒸気があった。デニスが示した場所には厚手のゴワゴワとした布が敷かれていたけど、とりあえずバスタオルを取って四つに折り、床において、あぐらをかいて座った。
 女の人が受ける時はどうするんだろう。一緒に受けることはあるんだろうか。でもどうせ暗いし、僕のあの部分がそれでああなったとしても……雑念が頭を過ぎる。振り払おうと、九九を反対に繰り返してみる。反対から読み上げる九九なんて雑念そのものと言われたら、その通りなんだけど。
 座ったあと、デニスが祝詞を唱えて、水のようなものを頭にかける。続いて焼けた石をテントの中央に並べたんだと思う。水が沸き立ち、噴き上がる熱が肌に伝わる。デニスは祝詞を唱えながら、さらさらと鳴る棒――葉がついた枝のようなもので石に水を掛け、そこにまた、猛烈な熱気が立ち上る。
 テントの中の温度はどんどん上がっていく。湿度もまた、喉を伝う空気を重くする。とくに焼け石に水を掛けた時に吐き出される熱量。肌の上で玉となった汗が、その重みで流れ出す。このあと飲まず食わずの修行に挑むのに、大丈夫なのか、僕は。
 夜明けから始まったスウェット・ロッジは昼前に終わり、僕と伯父はバスタオルを巻いて、あるいは肩に掛けてテントを出た。肌が赤い。闇から開放された体は、光を求めて震える。そそくさと服を着ると、クレアがハーブティーを差し出す。生ぬるく、生姜の味が鼻まで抜けるが、舌先に痺れを感じるような複雑な味。途中で返そうとすると、飲み干すように促される。
 続いてビジョン・クエストへ。
 デニスに案内されたのは断崖が少し窪んだ、洞窟になり損なった穴。そこに毛布を持って入る。ぎりぎり雨はしのげるけど風には完全にオープン。普通だったらここで四日四晩過ごすらしいけど、僕は三日三晩。ただじっと座って、瞑想みたいなことをするらしい。
 瞑想みたいなこと――デニスはそれをただ一言、『感謝』と言い表した。
 感謝ってそんな滅多矢鱈にするものじゃない気がするし、いったい誰に? 何に? それに三日間もずっと。具体的に何をどうすればいいのかと思ったけど、伯父がくれたアドバイスはただ『呼吸を数えろ』だった。いい加減な人だと薄々感じてはいたけど、感謝ってのはもっとこう、心の底から感じる、なんだろうな。もっと精神的な何かであって、呼吸なんて物理的なものじゃないよ。
 デニスに指示される通り、撚り紐で結界みたいなものを作って、そこに座って、試しに呼吸を数え始めてみたんだけど、20も数えたらもう、笑った。不思議なことに呼吸そのものが楽しくなってくる。呼吸を数えるだけで無駄に嬉しくなって、意識が飛んでいって、いつの間にか呼吸を数えるという些細な課題ですら忘れてしまっている。確かにこの気持は『感謝』に近いかもしれない。何に感謝しているのかわからないけど、息をしているだけでどうしてこんなにも喜びが満ちて来るんだろう。
 ビジョン・クエストで三日三晩飲まず食わずって、いったいどうやって凌げるんだろうと思ったけど、呼吸だけでいい。空気はごちそうだった。みんなにも教えたい。バカだと思われるかもしれないけど、何もいらない。僕はたぶん、息をするために生まれてきた。息以外はオマケなんだ。
 ――だけどその感動も、さすがに二日目は続かず、気がつくとそのまま寝ていたり、ぼんやりと目が覚めて自分がいる場所がわからなくなっていたり。確かに苦行。このゴツゴツした場所で三日過ごすのは辛い。感謝してもお腹はすくし、足は痛いし、なんて思っててもしょうがないから呼吸を数えてみると、いやあほんと、呼吸、やばい。呼吸だけでこんなに嬉しくなるなんて思ってもいなかった。
 でも20までしか数えられない。
 17、18、19、20、このあたりでいつも、霊魂が開放される。数という論理的な思考が、肉体のリズムに支配されて、甘く濃密な空気が肺から全身へ送り出される。呼吸は尻の穴、体の底辺まで巡り、そのたびに僕はくすぐられるような快感を覚える。呼吸は僕を縦に貫く。天から地へと抜ける植物になる。頭の頂点に、ゆっくりと花が開いていく。
 伯父さん。あとそれとデニスさん。
 はたして僕はこんな『空気うめぇ』を堪能するためにここに来たのでしょうか。
 世界中にいるデニスさんのお弟子さんの使命、運命の中で、僕の使命は『空気うめぇ』なんでしょうか。あるいは世界中にいるデニスさんのお弟子さんの使命はみなさん『空気うめぇ』なんでしょうか。あるいは――
 ――ちゃんと心を無にして、こんなことも考えないほうがいいのかな、とか。あるいはもっと真剣に、友達のことや家族のことを思って、祈りを捧げたほうがいいのかな、とか。
 ここには考えるための箱がない。宿題や課題で与えられるような、ここからここまでという決まりがない。どんどん拡散していく。拡散した思考はもう思考じゃない。
 三日目の夜。
 朝からずっと感じていた空腹が、いつの間にか消えている。乾きは僕に変な幻想を見せる。夢の断片が波間から飛び上がり、何かの形を見せようとして、また壊れる。夢を見ている時間は覚醒していて、目を開くと意識が抜ける。反対だ。どうなってるんだ。目の前に見えている景色の意味が、昨日から失われている。薄目をあけて見渡すと、こことは違う景色がぼんやりと浮かぶ。
 ――ラダレス?
 誰かに呼ばれた気がした。
 ――私が見えますか?
 幻聴かと思うと、声を返すのにもためらいはあった。だけど――
「誰?」
 ――カトレイシア・トライバル。
 声は少しずつ輪郭を顕にする。
「ラダレス――ではないのですか?」
 目に見えない誰かが語りかけてくる。
 幻聴はもっと、聞こえたかどうかわからないようなものだと思っていたのに、誰かが確かに、ちゃんと空気を震わせて、おそらくちゃんと横隔膜で肺を膨らませて摂り入れた空気を、肺を収縮させて吐き出し、声帯でその気流に疎密波を作り出して喋っている。
「僕は向井裕貴(ルビ・むかいひろき)……あ、ええっと、ヒロキ・ムカイ」
 僕はいま、すごくリアルな夢に落ちている。いや違う、現実の中に夢が来た。夢を見ているし、夢を見ながら目を開けているし、同時に寝てるし、同時に起きている。そうか。これがビジョン・クエストなんだ……。
「そうですか……ラダレスではないのですね」
 誰かと勘違いされてる。そのせいで僕はこの人を落胆させてしまったらしい。
「あなたは、どこから来られた方ですか?」
 こちらから訊ねてみる。
「私はミロウラ大陸の――いえ、今はノラ大陸から――」
 知らない大陸。でも、夢なんてそんなもんかもしれない。向こうは少し戸惑って、言葉を選び直す。
「赤い大きな渦がある星から――」
 木星?
 僕が心にそう思った瞬間、僕らふたりは木星軌道上にいた。
 足元は虚空。目の前に見えたのは黒いドレス、白いフリルのブラウス、ブルネットの巻毛、背中には巨大な漆黒の銃を背負う女性。表情はまだ見えない。深淵に浮かぶイオ、エウロパ、ガニメデ、カリストの四つの衛星と、大赤斑とそれに次ぐ大きな渦、オーバルBAを浮かべた星、木星。
「そう、この星から来ました」
 このとき、その表情がはっきりと見えた。二十歳前後、僕より四つか五つ上に見える。綺麗なひとだ。こんなに美しいひとが木星には住んでいるんだ……。
「木星はどんなところですか?」
「木星は……空には四つの月があって、少なくとも七つの浮遊大陸があり、そのそれぞれに文明が栄える豊かな場所です」
 カトレイシアと名乗った彼女が口にしたことは、すぐに情景として浮かび上がる。心象風景としてではなく、目の前に。魔法のようだ。でも次の瞬間、巨大な浮遊戦艦が現れて砲撃を浴びせて、幸せな景色は砕かれる。
「これは……?」
 彼女は少しうつむき、眉間に強い力がかかる。
「木星では戦争が続いています。悪い魔女が人々を苦しめ、暗黒の時代が続いているんです」
 目の前には次々と、木星で起きている戦争の景色が貼り付けられていく。景色だけじゃない。熱も、振動も、匂いも。戦艦が打ち出す六連の砲撃の音圧と、炸裂時の振動、吹き上がる火薬の匂い、その中に紛れる湿った木の匂いと、獣臭。燃え盛る火が肌をチリチリと焼いて、髪の毛が焼ける匂い、皮膚をだらりと流れる生暖かい液体の感触、見渡していると今度は背後から、また大きな爆発がして、瓦礫が僕の頭を殴り、その耳鳴りの外を爆風が通り抜ける。
 場面は替わり、僕は盾を構え、大上段からの一撃を受ける。そこにかかる圧力と手先の痺れ、無我夢中で右手に持った剣を相手に突き刺し、その柄を掌で押し込んだ時の、その切っ先のずるずると肉を裂く感触。そのまま体重を預けて、目の前の戦士に覆いかぶさって倒れ、その胸の下でぴくぴくと震える身体と、不自然にひゅーひゅーと噴き出す腐ったような息の匂い。剣を持つ手は白くて小さい。血塗れのフリルの袖。そうか。僕はいま、カトレイシアと名乗ったひとの体験をなぞっているんだ。
 右手に抱えた自動小銃の振動が心臓を揺らす。銃身が帯びた熱、弾の一発ごとに顔にかかる硝煙の匂い。鼻を突く白い煙の向こうで敵はシルエット、撃ち尽くした後の耳鳴りの中の静寂と、虚無感と、そこにようやく蘇る恐怖。足元から全身に駆け抜ける、その恐怖すら忘れていた己への言い知れぬ絶望。眼の前で、自分が放った弾で人が死んでいく。踏みつけた肉塊は雨で緩んだ地面に埋まりながら、血に染まった被服を滑らせて足を取る。それでも体を起こし、逃げて、走り、砲撃の音に追い越され、背の高い草が幾筋も腕を切りつける。振り返り、漆黒の銃を構え、泣きながら、叫びながら、迫りくる兵を、五人、十人となぎ倒す。
 カトレイシア――
 あなたはいったい、何をくぐり抜けてきたんだ。
 僕より少し大きいと言っても、生まれて過ごした月日なんか、たかだか数年違うだけ。
 涙がこぼれてくる。
 戦争は泣いている僕を更に責め立て、打ち据える。
「ごめんなさい。本当はこんな景色を見せたいわけじゃないんです」
「大丈夫です。アニメとかで慣れてますから」
 ――って、慣れてるわけがない、こんなもの!
 僕は逃げ出したかった。
 無意識に、ただ本当に何も考えずにその景色の上に、僕の記憶を貼り付けた。
 九九を反対側から――田中と競争して僅差で勝利したのは修学旅行、蔵王堂近くの小さな旅館。遠足で借りてたキャラメルをようやく返した、雨の日の山門と、薄雲に隠された吉野山。
 カトレイシア。
 参道の階段を駆け上る僕たちの姿が見えますか。
 僕のたった十四年の人生で、楽しかったことなんて小学生の間の、それも半分くらい。だけど残りの半分のクソみたいな人生だって、戦争に比べりゃたかだかクソだ。中学に入ると失恋を引きずりすぎて、からかわれるのが嫌で、いつの間にか僕が振ったことにしてしまった幼馴染、思い出から逃げ出したくて、ずっと嘘ばっかり吐いて――
 木星から来てくれた人の前に情けない僕の日常が展開される。
 五月の運動会、三階の六年一組の教室の窓から紐の一端を握って放り投げると、下で受け取った田中たちが運動場の四方に走って万国旗を張り渡す。
 カトレイシアが巻き込まれた戦争の業火に、小さな小さな水を掛ける。掛け続ける。
 新しいクラスメイトと遠足の宮ヶ瀬ダム。足元を掬われるような深い緑のダム湖と借りたキャラメルとそれから、流れ落ちる二筋の水流に飲み込まれる僕らの声と、走り回る公園、ケーブルカー。夏の日の林間学校、カレーを作って、飯盒で焚いたごはんの底の焦げを取り合って夜はキャンプファイヤー、いやいや踊ったマイムマイム。
 どんなに水を撒いても、その水はすぐに蒸発していく。
 それから――それから――
 セミを採った。
 いっぱい採った。
 はばたけよ、セミ!
 今こそミンミン鳴くときだろう、セミ!
 カトレイシア……!
 秋の……
 秋の合唱コンクール、一番を目指した放課後の練習で、何度も何度も繰り返し唄った歌と、自転車で走る川土手と、冬はマラソン大会、二人一組で周回数を数えあった体育の時間、息を切らして倒れ込んだ草むら。僕は勝手に、あの子も僕のことが好きなんだって勘違いして……卒業式、僕は……僕は……告白してフラれたけど、六年間本当に楽しかったし、あのクラスが好きだったし、たぶん僕の一番楽しかった時間。
 顔をあげると、やっと戦争の絵が消えていて、目の前は僕の卒業アルバムになっていた。
 カトレイシアもそれを見上げて笑っている。
 やっぱりそうだよ、戦争にばかり取り憑かれていたらいけないんだよ。
 せっかく会えたんだから、今だけ、今だけは忘れていいはずだよ。
 でもその目の前の景色がまた、燃やされていく。
 紅白の帽子をかぶった小学生の中に、甲冑の兵士が飛び込んできて、剣を振るう。
「ごめんなさい!」
 カトレイシアが座り込んで、落ちてくる頭を受け止めるように両手で抱える。
「大丈夫です、カトレイシア。僕はたぶん、このためにここに来ました。だけどまだ、僕は自分にできることがわかっていません」
 カトレイシアは何も言わない。だけど続ける。
「今できることは何もないけど、約束できることもないけど、僕たちはきっと、大きな流れに導かれていて、その流れを作り出してるのもきっと僕らだから、なんていうか」
 なんていうか、なんだろう。
 僕は僕の中の平穏を、どうやって作り出しているんだろう。
 カトレイシアは、己の中の戦争が漏れ出さないように、あるいは何も思い出さないように、ずっと耳を抑えている。
 デニスさん、わからないよ。伯父さん、なんなんだよこれは。
 僕はどうすればいいんだよ。
 ねえ、もう太陽が昇り始めるよ。
 最後の一言が見つからないまま、僕はこの夢から覚めて、木星から来たこの人は消えてしまおうとしている。
「呼吸を数えて、カトレイシア」
 僕は何を言っているんだ。
 やっと出た言葉がそれだなんて。
「数えるから、僕に合わせて」
 でもようやく、カトレイシアから不安が消えていく。
 彼女の呼吸が、僕の胸にも伝わってくる。
「いつかきっと、あなたを助けます」
 そうしていつしか僕たちは、同じ速さで息をしていた。
「この出会いに感謝を込めて」
 絞り出した言葉。
 よかったのかな、これで。

 この冒頭で何を悩んでいたかと言えば、エピソードの配分ではなかったかと思います。テキスト量12万文字で、木星に行ったあとは戦記的な流れになり、主人公視点の描写と大局とがうまく接合せずに、何をどこまで書けばよいかわからないという状態でした。そこを解決するにはやはり、数を書いてなれるしかなかったのだろうなと、今になって思います。
 そう言えばむかし、小説の冒頭ばっかり書いて仕上げられない主人公の話を書きました。サウンドノベルの案を出さないといけなくて、いろいろ書いてるうちに、「もったいないので繋いでしまおう」と思って繋いだのが件の作品でした。自分のことを自虐的に書いたのがあのパブロという小説家崩れでした。いまもやっぱり彼の姿が自分に重なります。今回は一度ラストまで書き上げてるものなので、同じ轍は踏まない気がします……。ということは、ちゃんと仕上げる? ということかなと思いますけど、さて、どの入り口から始めようかしら。

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